今年(2016年(平成28年))は、赤塚不二夫先生が2008年(平成20年)8月2日(土)午後5時前に黄泉の国に旅立ってから、8年になります。ちなみに当日は、新潟小倉函館の各競馬場で中央競馬の開催が行われていました。(この日のメインレースは新潟の新潟日報賞(準OP)、小倉の青島特別(500万下)、函館の七重浜特別(1000万下))

赤塚先生は1935年(昭和10年)に中国大陸のど真ん中、満州国熱河省(現在の河北省と北京市の境)に生まれ、当時は瀋陽市(満州国時代は奉天)に住んでいました。瀋陽と言えば、東芝日立製作所の工場も有る中国東北部の大都市で、現在は地下鉄も開通しています。10年後の満州国の廃止・消滅により瀋陽を出て、近鉄沿線の奈良県大和郡山市に引っ越します。

その後父親の出身地である新潟県新潟市西蒲区潟東(最寄りインターチェンジは北陸道巻潟東インターチェンジ、最寄り駅は国鉄(現在のJR東日本)巻駅)に引っ越し、赤塚先生はそこで中卒の社会人になります。

1956年(昭和31年)に漫画家デビューし、「おそ松くん」「天才バカボン」「ひみつのアッコちゃん」「もーれつア太郎」等の作品を作ります。
 
1966年(昭和41年)、「おそ松くん(第1作)」がMBSテレビ(毎日放送)制作、日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)系列で放送を開始します。(1967年(昭和42年)に終了)

1971年(昭和46年)、「天才バカボン」がよみうりテレビ制作・日本テレビ系列で放送を開始します。(1972年(昭和47年)6月に終了、1987年(昭和62年)にテレビ東京まんがのひろば」で再放送)この年に「フジオプロ」と呼ばれる会社が作られます。

1975年(昭和50年)10月、「元祖天才バカボン」が日本テレビ系列で放送を開始します。(1977年(昭和52年)9月に終了、1987年(昭和62年)にテレビ東京「まんがのひろば」で再放送)
 
1987年(昭和62年)、「天才バカボン」と「元祖天才バカボン」がテレビ東京「まんがのひろば」で再放送され、10年ぶりに赤塚不二夫人気が復活します。

1988年(昭和63年)2月、「おそ松くん(第2作)」が、同年10月、「ひみつのアッコちゃん(第2作)」がそれぞれフジテレビ系列で放送を開始します。前者は土曜日、後者は日曜日の放送で、おそ松くんの主題歌はOP、EDとも細川たかし氏が担当しました。(両番組とも1989年(昭和64年→平成元年)12月に終了)

1990年(平成2年)1月、「平成天才バカボン」がフジテレビ系列で放送を開始します。主題歌はOP、EDとも嘉門達夫氏が担当しました。(同年末に終了、1993年(平成5年)に同局で再放送)

1999年(平成11年)10月、「レレレの天才バカボン」がテレビ東京系列で放送を開始します。バカボンパパ役は小倉久寛氏が務めます。(2000年(平成12年)3月に終了)

2002年(平成14年)4月、赤塚先生は定期健診で訪れた順天堂大学医学部附属順天堂医院で病に倒れ、脳内出血と診断され同院に緊急入院し、手術を受けます。これを理由として、漫画家を事実上引退しますが、赤塚先生は「病気が治って退院したら漫画家を再開したい、新しい作品を作りたい」と考えていました。手術は成功・救命し、リハビリを含めた闘病生活がスタートします。入院中は外出や外泊は担当主治医の許可が必要(病状により許可が下りない場合も有り)で、病室ではテレビも午後9時までしか見られず、しかも有料(16時間で1,000円)なので、支払い方法は退院時に入院代と一緒に料金を支払うのでは無く、テレビカードを購入しなければなりません。夏はおろか秋になってもなかなか退院のお許しが出ず、NHK紅白歌合戦の放送終了時刻は大晦日の午後11時45分なので、紅白を最後まで見るには外泊許可をもらって一時帰宅するしか有りません。「年末年始くらいは…」というわけで同年12月に外泊許可を申し出ました。許可が下りれば8ヶ月ぶりの我が家でしたが、残念ながら外泊許可は出ず、紅白歌合戦も途中までしか見られず、「ゆく年くる年」は全く見られませんでした。

2003年(平成15年)、病に倒れ2年目、外泊許可が下りなかったのを理由に、箱根駅伝と高校サッカーは病室のテレビで観戦し、病院での三が日になりました。青梅市に青梅赤塚不二夫会館が新設され、それを祝う催しに出席するために外出許可を申請しましたが却下されました。そして、ゴールデンウイーク、お盆、年末年始の外泊許可も却下され、2年連続の病院での年末年始になりました。

2004年(平成16年)、病に倒れて3年目、今回も箱根駅伝と高校サッカーを病室のテレビで見ました。この年にいかりや長介氏が原発不明ガンで黄泉の国に旅立ちました。その葬儀に参列するために外出許可を申請するも、却下されました。そして、ゴールデンウイーク、お盆、年末年始の外泊許可も却下され、3年連続の病院での年末年始になりました。

2005年(平成17年)、病に倒れて4年目、今回も箱根駅伝と高校サッカーを病室のテレビで見ました。この年に愛・地球博(愛知万博)が開催されました。その閉幕直前に赤塚先生は70歳になり、誕生日祝いをお盆に前倒しして万博会場へ行くために外泊許可を申請しましたが、却下されました。また、中山競馬場で年末に行われる有馬記念がクリスマスに行われるということで、生観戦をするために外出許可を申請するも、却下され、病室のテレビで観戦する破目になりました。(ハーツクライが優勝)そして、年末年始の外泊許可も却下され、4年連続の病院での年末年始になりました。

2006年(平成18年)、病に倒れて5年目、箱根駅伝を病室のテレビで見ました。この年の7月、妻の眞知子氏がクモ膜下出血のため黄泉の国に旅立ち、青梅市で営まれるその葬儀に参列するために外出許可を申請するも、却下されました。赤塚先生の看病は、長女のりえ子氏が引き継ぎました。そして、年末年始の外泊許可も却下され、5年連続の病院での年末年始になりました。

2007年(平成19年)、病に倒れて6年目、箱根駅伝と高校サッカーを病室のテレビで見ました。この年の7月、妻の眞知子氏の1周忌に参列するために外出許可を申請するも、却下されました。そして、年末年始の外泊許可も却下され、6年連続の病院での年末年始になりました。そしてこの年末年始が、最後の年末年始となりました。これには訳が有りました。

実は赤塚先生は2002年(平成14年)に倒れた際に目の前に居た女性の胸に触り、「おっぱいだ、おっぱい」と言って気を失い、手術は成功し救命するもその後も意識不明の状態が続き、2004年(平成16年)からは植物状態になっていたというわけです。これでは、外出・外泊許可は下りる訳が無く、病室のテレビも見れる訳が有りません。トイレにも行けず、排尿も尿道カテーテルを使用していました。

そして2008年(平成20年)8月2日(土)、召天の日を迎えます。この報道は、民放各局のみならずNHKでもトップニュースで流されました。赤塚先生の遺体は、5日(火)に入院以来6年ぶりに新宿区の自宅に戻りました。外出・外泊回数が0回なので、6年ぶりと言えます。弔問に訪れたのは、山本晋也監督、ちばてつや氏、北見けんいち氏等でした。
 
葬儀は中野区に有る明王山聖無動院宝仙寺で営まれ、1988年(昭和63年)まで藤子・F・不二雄(藤本弘)氏(1996年(平成8年)に他界)とコンビを組んだ藤子不二雄Ⓐ(安孫子素雄)氏が委員長を務めました。弔辞はタモリ(森田一義)氏が読みました。内容は「私もあなたの数多くの作品の一つです。」です。出棺の際に使用された葬送曲は、アイドル・フォーが歌う「天才バカボン」の主題歌です。遺体は新宿区の落合斎場に到着し、そこで荼毘に付されました。ちなみに同施設の火葬炉は富士建設工業製です。

戒名は「不二院釋漫雄」で、「不二」は不二夫、「釋」は釈迦弟子(真宗教団連合の信者)、「漫」は漫画、「雄」は本名(藤雄)の意味が込められています。埋葬地は残念ながら公表されていません。というのは、赤塚先生の墓参りに行った人達は自身のブログに埋葬地を伝えていないからです。