千葉県船橋市古作1丁目に有る中山競馬場(JR東日本武蔵野線船橋法典駅、京成本線東中山駅下車)で施行された第111回中山大障害(秋)ブロードマインド(騎手:牧之瀬幸夫)が優勝した日で、同じく中山競馬場で施行された第38回グランプリ有馬記念(GⅠ)トウカイテイオー(騎手:田原成貴)が約1年ぶりの出走で優勝して奇跡の復活を果たす前日である1993年(平成5年)12月25日(土)午後0時47分、東京都新宿区河田町に有る東京女子医科大学病院(以下、女子医大。都営新宿線曙橋駅、都営大江戸線若松河田駅または牛込柳町駅下車。当時は大江戸線の名称は無く、練馬~光が丘間以外は未開通)で、入院患者の死亡確認作業が行われました。黄泉の国に旅立った彼こそ、同年9月から仕事を休止して末期の胃ガンと戦っていた大阪府大阪市阿倍野区出身でフリーアナウンサーのいっつみいこと逸見政孝さん(元フジテレビアナウンサー)です。

逸見さんがフジテレビを円満退職し、三木プロダクションと業務提携した『株式会社オフィスいっつみい』を立ち上げてフリーアナウンサーになったのは1988年(昭和63年)春です。その年の10月12日(水)から、「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」が日本テレビ系列で放送を開始し、逸見さんが黄泉の国に旅立ってから約3年後の1996年(平成8年)9月25日(水)の放送を以て終了するまで水曜夜の名物番組となりました。
 
こちらは同番組で「さあ、みんなで考えよう」とシンキングタイム開始を告げている逸見さんと渡辺正行さんです。
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翌年である1989年(昭和64年→平成元年)の昭和天皇崩御(死亡)後直ぐに放送されたフジテレビ系列の報道特別番組で、昭和天皇の崩御(死亡)を伝えたのは、5期先輩の露木茂さんです。因みに露木さんは、2003年(平成15年)にテレビ朝日系列で放送された石原裕次郎さんの17回忌特別番組の司会を務めており、逸見さんの13回忌を少し過ぎた2006年(平成18年)にTBS系列で放送されたメモリアル番組にも出演しています。

逸見さんはメジロパーマーが優勝した第37回グランプリ有馬記念(GⅠ)の3日後である1992年(平成4年)12月30日(水)に放送された日本テレビ系列「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」の山城と逸見の対決で逸見チームが優勝して司会の座を防衛(実は逸見さんは山城チームに負けたら京都府京都市出身で俳優の山城新伍さんに司会を譲ることを同年12月に表明していました)してから1ヶ月後の1993年(平成5年)1月18日(月)に前田外科病院の医師団によって行われた所属事務所の健康診断の再検査で、「胃に初期の悪性腫瘍を見つけました」と診断されます。夫人で東京都目黒区出身の逸見晴恵さんは恐怖のあまり震えが止まらず、また自身もみるみるうちに顔が青ざめたといいます。

入院したのは診断から1週間後の1月25日(月)です。2月4日(木)に手術を受け無事成功します。その間「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」の司会は逸見チームが負けたら司会になる予定だった山城新伍さんが代役を務めました。逸見さんは2月25日(木)に退院し翌日から1ヶ月ぶりに仕事を再開します。院長の前田昭二先生は逸見本人には「ガン細胞は全部除去しました。もう心配しなくて結構です」と伝えましたが、晴恵夫人には「胃の4分の3を除去しました。実際には初期の悪性腫瘍では有りませんでした。5年先の予後は極めて不良です」と宣告していました。実は逸見さんは健康診断の前に胸のみぞおちの辺りに痛みを訴えており、手術時には周囲のリンパ節や腹膜にも転移病巣が有ることがわかり、前田先生はそれも除去したと言います。

4月からTBS系列で逸見さんが出演する新番組がスタートし、当時は徳光和夫さんやみのもんたさんを凌ぐ忙しさでした。また、逸見さんは、中山競馬場で行われるこの年の有馬記念表彰式のプレゼンターや、大晦日に東京都渋谷区神南のNHK放送センターで生放送されるNHK紅白歌合戦の司会も狙っていました。しかし、東京都府中市日吉町に有る東京競馬場で第60回日本ダービー(GⅠ)が行われ、ウイニングチケットが優勝した後、逸見はへその近くに痼が有るのに気付きます。奥尻島に津波被害を出した奥尻島大震災(北海道南西沖地震)が発生した7月12日(月)以降も忙しかったため、夏休み中の8月12日(木)に2回目の手術を受ける事になりました。しかし、その痼が転移ガンなのです。逸見さんが夏休みに突入した頃には、5月に発生した転移ガンが広がっており、担当主治医は「ガンが再発しています。大変な状況で、これ以上手がつけられません」と晴恵夫人に宣告しました。しかし、逸見さん本人には「ガンの再発と転移はありません。へその近くの痼は良性です」と言っていました。

逸見さんは夫人の晴恵さんや社長の三木治さん等の勧告および前田外科への不信感でようやく9月3日(金)に女子医大で精密検査を受け、その結果を聞いた際「逸見さん、どうしてこんなに成るまで放っておいたのですか、明らかに状態がおかしいじゃありませんかこのままにしておけば、1年先の予後は極めて不良です」と、羽生冨士夫教授をはじめとする医師団からお叱りを受けます。ガンの再発を告げられたのです。でも逸見さん本人には「しかし手術を受ければ少なくとも10年先の予後は良好です。私達も頑張りますので、逸見さんも頑張ってください」と言っていました。

逸見さんは、狙っていた有馬記念表彰式のプレゼンターや、NHK紅白歌合戦の司会を諦めざるを得なくなり、徳さんこと徳光和夫さん、トメさんこと福留功男さん等に司会の代役を任せ、小倉競馬場で小倉2歳ステークス(GⅢ)が行われた翌日の9月6日(月)、当時千代田区麹町に本社スタジオを構えた日本テレビ(現在は港区汐留に本社が有り、麹町に有るのは別館)2階の大型ホールで緊急記者会見を開き、「私が今、侵されている、病気の名前、病名は…ガンです。」とガンを告白。そして3ヶ月間は仕事を休止して治療に専念する事を表明し、「生還してください」「頑張ってください」「負けないでください」と各方面から声援を受けます。その記者会見が最後の仕事になろうとは…。そして女子医大に入院し、ガン治療開始。逸見さんが緊急記者会見を開いた日は、9月4日(土)に台風で中止となった新潟競馬の代替競馬が行われており、これが開設以来初の順延です。

9月16日(木)、医師団はスグに手術を開始します。逸見さんは歩いて手術室へ入室し、家族は手術室の前の待合室で待機します。コレが通算3回目の手術です。胃の全部と周辺臓器の一部を除去しました。所要時間は13時間。それも成功し、その後の逸見さんは普通食の摂取も許され、リハビリも開始するなど順調に回復しました。土曜日と日曜日には病室のテレビで競馬も見ました。そして、福島競馬場のカブトヤマ記念(現在は廃止、福島牝馬ステークスが代替新設)施行日の前日である10月23日(土)に外泊(一時帰宅)の許可が下り、久々に我が家(東急東横線自由が丘駅、同目黒線奥沢駅下車。当時は東横線に東武・西武両車両の乗り入れは無かった)で過ごせると思った矢先、逸見さんは外泊当日に腹痛を起こし、「羽生先生、急変です!」と看護師からの知らせを受け、「逸見さん、大丈夫ですか、しっかりしてください」と羽生医師が叫びます。これにより外泊は中止となり、検査が行われました。結果は腸閉塞でした。その後の外泊の許可は下りませんでした。というのは、この腹痛を境に体調が徐々に悪化していったからです。

意識が有る頃は自身が出演する番組を病室のテレビで見て、代役を務める福留功男さん、福澤朗さん、徳光和夫さん、板東英二さんらの司会ぶりを拝見していました。因みに板東英二さんは、1984年(昭和59年)に、体調不良でABC・テレビ朝日系列「パネルクイズ アタック25」を休んだ児玉清さんの代役を務めており、代役司会はこれが9年ぶりです。

抗ガン剤治療は11月上旬から開始します。当時の菊花賞はこの時期に行われていましたが、現在の菊花賞は10月開催となっています。抗ガン剤治療の際も羽生医師は「辛いかも知れませんが、あなたを殺す訳ではありません。あなたの命を救うのが私達の仕事です。頑張ってください」と言っていました。

12月1日(水)、家族等に「ご主人の体に再びメスを入れることはできなくなりました。残念な話ですが、完全復帰は有りません。それどころか、年を越せるかどうかもわかりません」と、主治医の羽生冨士夫教授は宣告しました。同16日には、再検査で腸にガンが発見されました。23日には長男の逸見太郎さんや見舞いに訪れた仕事仲間に「三番が正解です」や「太郎、すまんな…、頼むな…」等と言い、これを最後に、逸見さんは死ぬまで喋ることは無かったのです。

意識不明の危篤状態になったのは12月24日(金)、この日は太郎さんの21歳の誕生日でした。「パパ、死なないで!」「逸見さん、死んではいけません」の呼びかけも空しく死亡が確認されたのは、冒頭で述べた通り翌日午後です。48歳の若さでした。逸見さんの亡骸は女子医大地下2階に有る遺体保存室(霊安室)日立製作所製エレベーターで運ばれました。

「誠實院温譽和顔政孝居士霊位」これが逸見さんの戒名です。死後、女子医大河田町キャンパスの会議室で会議が行われ、「末期の状態であったにも関わらず、何故大手術を受けた(受けさせた)のか」「クオリティ・オブ・ライフを無視した手術だった」といった疑問・批判の意見が多数あがりました。逸見さんの亡骸は新宿区河田町から世田谷区奥沢に移されます。

逸見さん死亡のニュースは民放各系列のみならずNHKでも報道されました。『夜も一生けんめい。』で代役を務めた徳光和夫さんは死亡直後に日本テレビ系列で生放送された緊急追悼特番の司会を務めそのCM中に号泣しました。

死亡確認後の逸見さんはスーツ姿で棺桶に入り、平成教育委員会で着用していた学生服を入れてもらいました。そして、千日谷会堂(JR東日本信濃町駅下車)で12月26日(日)に通夜が営まれました。この日は、中山競馬場で第38回グランプリ有馬記念(GⅠ)が施行され、トウカイテイオー(騎手:田原成貴)が約1年ぶりの出走で優勝して奇跡の復活を果たしています。通夜終了後、逸見は棺桶の中で眠ったまま霊柩車に乗せられ、TBS(赤坂)→テレビ朝日(六本木)→テレビ東京(虎ノ門)→NHK(渋谷)を回って信濃町に戻ります。

12月27日(月)には葬儀・告別式が同所で行われ、告別式終了後、逸見さんは棺桶の中で眠ったまま霊柩車に乗せられ、日本テレビ(当時の本社所在地は麹町)→フジテレビ(当時の本社所在地は河田町)を回り、新宿区の落合斎場に到着します。斎場内は勝手な写真撮影が禁止されているため、報道陣と新聞記者は入れなませんでした。そこで荼毘に付され、小さくなって、斎場を後にし、東急東横線沿線の田園調布方面へ向かいます。

1994年(平成6年)には、『ガン再発す』が発売されています。

夫人の逸見晴恵さんは2010年(平成22年)10月21日(金)、悪化した持病に勝てず埼玉県で永い眠りにつきます。愛犬はその7日後に黄泉の国に旅立ちます。夫婦そろって、そして愛犬も東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)を経験する事は有りませんでした。(同震災の発生時刻が2011年(平成23年)3月11日(金)午後2時46分頃のため)勿論3冠馬になったオルフェーヴルの姿も見る事は有りませんでした。

その後、逸見政孝さんの再現ドラマが何度か放送されており、一番記憶に新しいのは、2013年(平成25年)9月13日(金)の「人生の正解TV」で取り上げられたものです。

そして2015年(平成27年)12月25日(金)、23回忌を迎えました。