火垂るの墓」の作者として知られ、直木賞も受賞している作家の野坂昭如さんが、9日夜に父・相如さん(1978年没)の待つ黄泉の国に旅立ちました。

警視庁などによりますと、野坂さんは9日、自宅のベッドの上で倒れているのを妻が見つけ、都内の病院に運ばれましたが、午後10時半ごろに死亡(天皇、上皇、皇后、皇太后だと崩御。なお、2000年(平成12年)に崩御した香淳皇后については「崩御」では無く「ご逝去」と報道)が確認されました。85歳没で、正式診断名は心不全でした。

野坂さんは、1930年(昭和5年)に鎌倉市で生まれ、1967年(昭和42年)には、自身の戦争体験を元に、戦火の中を生き抜く兄と妹の姿を描いた小説「火垂るの墓」で直木賞を受賞しました。このほかにも、沖縄戦を題材とした戦争童話集を発表するなど、戦争の悲惨さを訴え続けました。一方で、1983年(昭和58年)には参議院選挙に比例代表から立候補して当選しました。

野坂さんは、2003年(平成15年)に脳梗塞で倒れましたが、リハビリを続けながら執筆活動を続けていました。

ここで、皆さんに火垂るの墓について説明致します。設定時代は1945年(昭和20年)、舞台設定地は兵庫県神戸市西宮市です。

戦争(太平洋戦争、日中戦争、第2次世界大戦)が日本の敗北で幕を降ろしてからから1ヶ月以上経った1945年(昭和20年)9月21日()、省線(現在のJR西日本)三ノ宮駅で、駅員さんが衰弱して死んでしまった清太を発見し、その死体を焼き場まで霊安業者に持ってってもらい、妹・節子の遺骨を収めたドロップ缶を線路脇の草むらに投げ捨て、そこにこぼれ落ちた遺骨の周りに蛍が飛び交い、静まった所から、この物語がスタートします。

清太と節子の2人は兵庫県神戸市東灘区御影に住んでいましたが、神戸大空襲で母が死亡、家も焼かれ、西宮市甲子園に有る従兄弟の家に身を寄せます。

最初は順調でしたが、その共同生活も戦争が進むにつれて、2人を邪魔扱いする説教くさい叔母との諍いが絶えなくなっていきました。心地が悪くなった清太は節子を連れて家を出ることを決心し、近くの満池谷町の貯水池のほとりにある防空壕の中で暮らし始めますが、配給は途切れがちになり、情報や近所付き合いもないために思うように食料が得られず、節子は徐々に栄養失調で弱っていきました。清太は畑から野菜を盗んだり、空襲で無人となった人家から火事場泥棒し、時には見つかり殴られながらも飢えをしのぎました。

ある日、川辺で倒れている節子を発見した清太は、病院に連れていくも医者に「栄養失調ですね。滋養を付けるしか有りません。十分な栄養を与えてください」と言われたため、銀行から貯金7,000円(現在の約1328万円)を下ろして食料の調達に走る最中に日本が降伏して戦争は終わったことを知りました。清太は日本が敗戦し、父の所属する連合艦隊も壊滅したと聞かされショックを受けてしまいます。ちなみに清太の父の生死は「不明」と設定されています。

節子はスイカを食べて目を閉じたた後、目を覚ますことは無く、清太が食べ物の調達から帰ってきた時には既に節子は生命活動を廃止していました。清太は節子を棺桶の代用品であるかごの中に大事にしていた人形や財布と共に収め、それを薪の上に載せ、マッチで点火し節子を荼毘に付すと、遺骨をドロップ缶に収め、山を降り、衰弱死するまで三ノ宮駅で過ごしました。映画では復興した神戸の街並みがラストで映っています。ちなみに清太は遺体で発見後、霊安業者の手で他の20~30体の死体と共に荼毘に付され、市内の墓地に無縁仏として埋葬(実際には納骨堂に保管)されています。

こちらは永い眠りにつき棺桶の代用品であるかごの中に収まった節子です。この後節子は、遺品と共に焼かれ、4年の生涯に名実共に幕を降ろします。ちなみに「ルパン三世」に登場するイアンヌは、永い眠りにつき棺桶の中に収まった後、崩壊する建物と共に沈んでいます。
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こちらは清太の死没地となった三ノ宮駅の実際の写真です。
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