今年は、大阪姉妹殺害事件が発生してから10年、その首謀者である山地悠紀夫元死刑囚が処刑されてから6年になります。

エンタメでは東京都港区の病院で白血病と戦っていた本田美奈子さんが38歳の若さで黄泉の国に旅立ち、競馬では池添謙一騎手騎乗の牝馬のスイープトウショウがエリザベス女王杯(GⅠ)を優勝した直後の2005年(平成17年)11月17日(木)午前2時過ぎ、当時22歳だった山地悠紀夫容疑者は大阪府大阪市浪速区のマンション4階の上原さん姉妹宅に勝手に忍び込み、先に帰宅した姉の明日香さん(当時27歳)と、次に帰宅した妹の千妃路さん(同19歳)の胸等を刃物で刺し、証拠隠滅を図るためライターで室内に放火し、500円玉の入った貯金箱を持って逃げ出しました。2人は救急車で運び込まれた大阪市内の病院で間も無く死亡が確認され、大阪府警浪速署強盗殺人事件と断定して捜査を開始しました。

大阪府警が山地容疑者を逮捕したのは同年12月5日(月)です。逮捕容疑は建造物侵入容疑です。山地容疑者は16日(水)夜に現場のマンションと隣接する食品会社の壁にへばりついていたところをマンション住民に目撃されており、これが逮捕理由です。調べに対し山地容疑者は「寒さをしのごうとした」などと話していましたが、同月中に犯行を自供しました。山地と姉妹は面識が有りませんでした。その動機について、「母親を殺したときの感覚が忘れられず、人の血を見たくなった」「誰でもいいから殺そうと思った」などと供述、テレビドラマではきっぷ売場を連想する浪速署の面会室を訪れた弁護士には「ふらっと買い物に行くように、ふらっと人を殺しに行ったのです」と述べています。凶器のナイフ(刃渡り12㎝)は供述通り、マンションから約400m離れた神社の敷地内の、神輿や台車が収納されている2階建て倉庫で発見されました。

山地容疑者には山口母親殺害事件の前科が有ります。山地容疑者の父は阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)が発生する少し前の1995年(平成7年)1月に肝硬変で死亡し、その後は母親との2人暮らしでした。父の死亡から5年後の2000年(平成12年)7月29日(土)午後9時ごろ、山口県山口市の自宅で、当時16歳だった山地容疑者と当時50歳だった母親は口論となります。きっかけは山地容疑者が交際したいと考えていた女性の携帯電話に、母親が無言電話をかけたためでした。そのことを母親に山地容疑者は問いただしましたが認めず、母親が山地容疑者に対し「出て行け」などと言ったことに腹を立て、借金の事も絡んで口論となり暴行を加えました。そして、頭に血が上った山地は金属バットで母親の頭と顔と胸などを殴り倒し母親を滅多打ちにし殺害しました。7月31日(月)午前1時頃、山地容疑者は「母親を殺した」と110番通報をします。山口県警山口署員は山地容疑者を殺人容疑で緊急逮捕しました。緊急逮捕は通常逮捕と違い、逮捕状は逮捕後に請求します。(通常逮捕は逮捕前に逮捕状を請求、現行犯逮捕は逮捕状は不要)

山地容疑者は山口家裁から岡山県岡山市南区箕島に有る中等少年院(最寄駅:JR西日本山陽本線庭瀬駅)に行けと命令され、同施設に収容されましたが、2003年(平成15年)秋に釈放(同年秋時点では仮出所、刑期は2004年(平成16年)春に満了)されています。その後は岡山市に住民登録され、同市内のパチンコ店で住み込みで働いていましたが、2005年(平成17年)2月に福岡県を本拠地とし、パチンコやパチスロの機械を不正に操作してパチンコ玉やパチスロコインを盗む「ゴト師」と呼ばれる窃盗団体の元締めと知り合って、同団体に加わり、そうした裏家業で生活をしていくようになります。

同年3月、そうした不正行為が発覚し、窃盗未遂容疑で福岡県警に逮捕され、起訴猶予となっています。釈放後もゴト師を続けようとしましたが、同団体が福岡県から大阪府に活動拠点を移した頃から、仲間から「仕事ができない」と見捨てられつつあり、「自分には向いていない」というようなことを言いはじめ、「君って奴は何故そんな馬鹿な事を言うんだ」と怒られることも有りました。そして同年11月には、稼ぎが上がら無いのを理由に、山地容疑者は仲間に「本日限りで僕は脱退します」と申し出て、活動拠点としたマンションを出て行き、その後は大阪市内の神社や公園で野宿をしていましたが、住む所と勤務地の無い山地は、このまま娑婆で過ごしても、そして生きていても面白く無いのを理由として、母親を殺した際に感じた興奮と快楽を再び得るために再度重い犯罪を冒して刑務所に入所し、そこで人生に幕を降ろそう(痴漢や万引き等の軽い犯罪だと最良だと数週間、最悪でも数年で釈放される(万引きでも窃盗罪が成立し10年以下の懲役または50万円以下の罰金が課せられる)ので、殺人などの重い犯罪を冒して最悪なら死刑、良くても無期懲役で、その場合は刑務所入所から10年経過しても仮出所の請求をせず、規則違反をして刑務官に「バカモン」と叱られるなり、懲罰室(規則違反を冒して叱られた受刑者を閉じ込めて反省を促す部屋)に閉じ込められるなりを繰り返して死ぬまで刑務所で過ごす)と考えました。そして、先ほどの事件を起こし、大阪府警に逮捕されてしまいました。

この事件を受け、当時法務大臣を務めていた自由民主党(自民党)杉浦正健氏はジャスタウェイヌーヴォレコルトワンアンドオンリーの父ハーツクライジェンティルドンナキズナミッキーアイルの父ディープインパクトを封じた第50回有馬記念(GⅠ)を週末に控えた12月20日(火)の閣議で、少年院退院者に対する就労支援策の強化を検討しました。因みに杉浦氏は、鎌倉時代親鸞上人が開設した浄土真宗の1派かつ、死刑制度に反対し、同制度の廃止を求めている団体である真宗大谷派(本山:東本願寺(京都府京都市下京区))の信徒であるのを理由に、「死刑を執行しなさいと書かれてある書類にサインはしません。死刑を執行しなさいという命令は、人を殺せと同じです」と発言しましたが、1時間後に発言を取り消しています。

これは逮捕後の山地悠紀夫容疑者で、笑っている理由は現在も不明です。
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そして、大阪府警は山地容疑者を大阪地検に送り、同地検は年明けの2006年(平成18年)1月、強盗殺人等6種類の罪で大阪地裁に起訴状を提出しました。山地は容疑者から被告人に成りました。

山地被告は起訴されてから数日後、大阪府警浪速署の留置場から大阪拘置所(大阪府大阪市都島区)に移され、同施設の共同室(雑居房)に閉じ込められました。共同室は、6名~8名が入ることができ、ドアと仕切りに窓が有る洋式トイレと流し台、テレビ(優遇が3類以下の場合は視聴できる時間帯は平日は午後6時~同9時、休日も平日分に午前8時~同10時までの時間帯が加わるだけ。ルール違反を理由とする懲罰中は視聴不可能。大晦日はNHK紅白歌合戦終了まで、日本ダービー、宝塚記念、有馬記念等の八大競走開催日は午後2時30分(東日本では「みんなのKEIBA」、西日本では「競馬BEAT」の放送開始時刻)から視聴可能。優遇が2類以上の場合は食事の時間以外は自由に視聴可能)、机、布団、私物品を入れる棚等が有るだけです。ここでの生活は、午前7時(休日は午前7時30分)に起床し、食事が1日3回、看守の点検が1日2回、入浴と運動が週2~3回、面会が1日1回以上有ります。他の囚人との会話は、自由時間のみ許され、就寝は午後9時です。保釈されれば、保釈の条件(例:海外旅行や3日以上の国内旅行には裁判所が発行する許可証が必要、公判開催日および呼び出しが有った日は必ず出頭する必要が有る、被害者との直接の接触をしてはいけない)さえ守っていれば、後は普通に仕事や外出をしたり、終日テレビを見たり(食事しながらのテレビ視聴も可能)、毎日お風呂に入ったりと、一般人と同じ生活ができますが、殺人罪など最高刑が死刑または無期懲役もしくは下限が懲役1年以上となっている罪に問われた被告人(刑事訴訟法344条1号)や、住所不定の被告人(同法同条6号)、証拠隠滅の恐れが有る被告人(同条4号)の保釈は、裁判所が保釈するべき特別な事情があり、逃亡などの恐れがないと判断した場合を除き一切認められず、山地被告もその1人で、判決確定まで共同室で過ごしています。因みに山地被告は、住む所と勤務地が無い(山地は2000年(平成12年)の逮捕後に勤務地を強制退職(理由は長期の無断欠勤)にされた上で住民登録を抹消、2003年(平成15年)の仮出所後に再登録されるも、仮出所から1年5ヶ月後、刑期満了から11ヶ月後の2005年(平成17年)2月に再度住民登録を抹消)のと、吉岡守(旧姓は宅間)元死刑囚と同じ死刑願望者であるのを理由に、逮捕から判決確定まで、保釈請求は1回もしていません。

小さな過ちならば、たとえ「お前は首だ」と厳しい突っ込みをされていても、深く反省していれば、怒っている人は「ちょっと言い過ぎたなぁ~、『お前は首だ』なんて言わなければよかったなぁ~」と考え、謝罪次第、「僕もちょっと言い過ぎた」と言って許すかもしれませんが、今回は犯罪、しかも強盗殺人事件です。娘2人を失った両親と、娘2人の友人らは、山地被告がどんなに反省していても彼をどうしても許すことができず、たとえ山地被告が万が一保釈され、謝罪しに来ても「今更謝ってももう遅い、許してもらいたかったら娘を返してくれ」と厳しいことを言わざるを得ません。

裁判は、当時は裁判員裁判の制度が有りませんでした。したがって裁判官だけで審理と公判が行われました。2006年(平成18年)5月1日(月)に初公判が行われ、大阪地検の検察官が大阪地裁に提出した起訴状を再度受け取り、それを読み上げると、山地は起訴事実を認めました。山地被告は「起訴事実を認めないと君を保釈させないぞ」と大阪地検の検察官に言われたのでは無く、自主的に認めました。少年院時代に精神科医に対して「法律を守ろうとはそんなに思っていない」と話していたことが明らかにされました。殺された姉妹の両親と友人らは「私達は死刑判決を望んでいます。死刑判決が出なければアイツ(山地悠紀夫被告)が釈放されるのを待って殺しに行きます」と記者会見で言っていました。

5月12日(金)、第2回公判が開かれましたが、被告人質問で山地被告は「人を殺す事と物を壊す事は全く同じ事」と述べました。母親殺害との関連性についても質問されましたが「自分では判断できない」と答えました。

6月9日(金)から10月4日(水)まで精神鑑定が実施されましたが、10月23日(月)に裁判長の並木正男は、アスペルガー障害を含む広汎性発達障害には罹患していないと判断し、検察側の「人格障害(非社会性人格障害、統合失調症質人格障害、性的サディズム)である」とする完全な責任能力を認める精神鑑定書を証拠として採用しました。

10月27日(金)の第10回公判では、法廷に2万2796人分の死刑を求める嘆願書が提出されました。これは殺された姉妹の友人達が集めた異例のものですが、山地被告は大阪地検の検察官に「どう思う」と問われても「何も」としか答えませんでした。大阪地検により死刑が求刑されたのは11月10日(金)です。同日午後、弁護側の最終弁論公判の最後に裁判長から意見陳述を促されましたが、これに対し山地被告は「特に何もありません」とだけ述べ結審します。

競馬ではディープインパクトのラストランである第51回有馬記念(GⅠ)を11日後に控えた頃である12月13日(水)、大阪地裁の並木正男裁判長は大阪地検の求刑通り、「判決主文、被告人を死刑に処します」という判決文を読み上げました。死刑判決の瞬間も、山地被告はまっすぐ前を見据えたまま微動だにしませんでした。判決後、並木裁判長は「遺族の悲しみはどれほどかをもう一度考え、幼いころの人間性や家族との温かい交流を思い起こし、遺族の苦しみの万分の一でも理解してほしい」と説諭しました。山地被告は「はい、分かりました」と返事し、閉廷後、刑務官に付き添われて大阪拘置所に戻りました。(保釈されていない被告人が実刑判決(執行猶予無しの有罪判決)を受けた場合は、「戻る」の文言を使用)殺された姉妹の両親と友人らにとっては望み通りの判決でしたが、死刑願望者である山地被告にとっても望み通りの判決と言えます。これは山地被告が弁護士に「生きていても面白く無い、死ぬと言うよりも、最初から生まれてこない方がよい」と言っていたためです。

有馬記念の2日後である12月26日(火)、弁護団は判決を不服として大阪高裁に控訴しましたが、死刑願望者である山地被告は、「生きていても面白く無いので、控訴を取り下げて死刑判決を確定させる」と考えていました。山地被告は弁護士との接見中「生まれてこない方がよかった」などと話していたといいます。そして山地被告本人の控訴取り下げにより死刑判決が確定したのは、ウオッカが優勝した日本ダービー(GⅠ)から4日後の2007年(平成19年)5月31日(木)でした。読売新聞によりますと、殺害された姉妹の父親は死刑確定について「アイツ(山地悠紀夫)が死刑になるのは当たり前です。死刑判決の確定まで遅いと思います。再審(裁判のやり直し)請求をするなと言っておきたいです」と語りました。

その後は、再審請求もせず、法務大臣宛に「早く死刑執行命令書にサインして大阪拘置所に届けてください」という手紙を何通も送っていました。刑務官が廊下を歩く音が聞こえる度に、「いよいよ殺される日が来たぞ」と考えていました。死刑確定者に成った山地は、大阪拘置所の死刑確定者専用の単独室(独房)に移されました。ここでは、トイレが洋式なのは共同室と同じですが、単独室のトイレにはドアと仕切りは有りません。テレビは月4番組、それも録画された物しか視聴する事ができません。そのためテレビは死刑確定者専用の独房内には原則として設置せず、希望が有った日に刑務官がDVDプレーヤーと共に運んできて、視聴が終わると持って行かれます。勿論DVD視聴なので、アンテナケーブルには接続しません。

母殺しから9年、そして死刑判決確定から2年が経過した日であり、サクラオリオンが函館記念(GⅢ)を制した翌日でもある2009年(平成21年)7月28日(月)、森英介法務大臣(東京都千代田区出身、本籍は千葉県勝浦市)の執行命令書捺印により、大阪拘置所において、山地死刑確定者の死刑が執行されました。享年25歳で、最後まで反省と謝罪の言葉は有りませんでした。山地死刑確定者はまず「山地、出房だ、出なさい」と刑務官に言われ部屋を出され、刑場に到着し、お別れ会が開始すると死刑執行を担当する刑務官に「山地、これは京都で作ったお前の位牌やで。お前の戒名は○○院○○日○居士霊位や」と言われ、「これで黄泉の国に旅立てます。皆さん、お元気で」と言い残した後、目隠しをされ、手錠をかけられて絞殺室に移動したといいます。そして山地死刑確定者は手足をロープで縛られ、首に絞殺ロープをかけられ、5人の刑務官に5つの床開閉スイッチを押されて開閉床が開き、下に落とされ、2度と動かなくなって、棺桶に収まりました。同日には同じ大阪拘置所において、やはり快楽のために凶行を重ねた自殺サイト連続殺人事件の前上博死刑確定者の執行も行わています。この他、東京拘置所(東京都葛飾区)において上告棄却で死刑判決が確定した1人の死刑確定者が処刑されています。20代の死刑確定者に対する執行は1979年(昭和54年)に執行された正寿ちゃん誘拐殺人事件の死刑確定者(死刑執行時29歳)以来30年ぶりであり、25歳での死刑執行は1972年(昭和47年)に執行された少年ライフル魔事件の死刑確定者以来37年ぶりでした。

また、死刑判決確定から2年という短期間での執行は、同日に執行された自殺サイト殺人事件の加害者同様に、他の死刑確定者と比較して早期の執行です。

こちらは死刑執行報告を受け記者会見を行う森英介法務大臣です。
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なお、映画化はされておらず、今後も映画化する予定は有りません。

こちらは山地死刑確定者が大阪で処刑されてから3ヶ月が経過した2009年(平成21年)10月に出版された「死刑でいいです―孤立が生んだ二つの殺人」で、府中共同通信杯(GⅢ)(トキノミノル記念)の優勝杯を提供する共同通信社所属の池谷孝司さんと真下周さんが出しています。
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